劇団大樹  kawano seiichi
川野誠一

  


み群杏子さんの作品と初めて出会ったのは、今から10年前になります。「ポプコーンの降る街」という戯曲でした。ポエティックな言葉運びの中に感じられる人の痛みや孤独を優しく見つめる眼差し、そこには心の温度が上がって行くような世界がありました。こんな世界観を持った劇作家が日本にもいるんだとドキドキさせられたのを覚えています。僕が大好きな劇作家/ジョン・パトリック・シャンリィの世界とどこか似たものを感じたからです。その後、み群さんとのメールのやりとりの中で、作詞家であった彼女が戯曲を書くキッカケとなった作品が、そのシャンリィの「お月さまへようこそ」であった事を知り、僕は驚くことになるのですが。

み群杏子さんと初めてお会いしたのは、2005年の10月。京都祇園でした。この年の12月に「ポプコーンの降る街」の上演が決まっていた事もあり、僕が出演していた狂言の舞台を、お母様と観にいらして下さったのです。あの時は本当に初恋の人に会うのかと思うほどドキドキしました。自分が心酔した世界を描いた人と会うのですから、それはもう特別な想いです。まさに僕は俳優として、み群さんの世界に恋をしてしまっていたのです。

み群杏子さんの作品は、時代に置いてけぼりにされたような世界かも知れませんが、それだけにより人間的な営みと忘れられた言葉の温もりが溢れています。ストーリーやロジックに走らない人肌の物語の中に描かれる人間の痛みが読んでいる者の心に優しく響いて来ます。だから読み終わった後にすっと心に染み入る浸透力があるのです。まるで夢から覚めた朝に不思議な活力に満ちているような気分に僕はさせられるのです。このような作品が今この時代に必要なのではないかと僕は演劇人として強く思っています。

ここで今回の上演スタイル「月と語りとアンサンブル」についてお話します。

「月」は女性の象徴であり、僕にとってのみ群杏子さん。作品の中でも大切なキーワードとなっています。「語り」はベースとなる上演スタイル。「アンサンブル」という言葉には“小規模な編成”という意味もありますが、刻々と姿を変える月の変化を、作品の組み合わせの妙とし、また俳優達によるアンサンブルと比喩しました。上演スタイルはあくまで“朗読劇”ですが、目指す所は「語り手」+「月の精」+「生演奏」のアンサンブルが織り成す、新しい朗読劇の確立です。月の精に誘われ、言葉と音楽が心模様となってお客様に浸透していく。僕が大切にしたいのは物語そのものよりも“み群杏子さんの世界”です。「今回上演する作品は戯曲ではなく、短編小説であったり、ラジオドラマであったり、朗読劇であったりする作品たちです」とみ群さんのコメントにもありますが、今回の作品は、舞台表現化される事を前提とされていないものであると言えます。つまりそれは、上演する以前にひとつの「作品」として完成されているという事です。

ここで話を一旦すり替えます。音楽というジャンルにおいて「プロモーションビデオ」なるものが商品として流通しています。楽曲に映像を加え、イメージビデオ化したものですが、ここでひとつの疑問が生まれます。世に流通する「音楽」とは、楽曲として既に完成されたものであり、そのものがプロモーション媒体としても十分通用するものであると言えます。ならば何故、CDなどの音楽媒体とは別に「プロモーションビデオ」なるものが製作され、商品化されるのか? 今やそれは一般化し当たり前のように流通していますが、僕の記憶が確かならば、かつての音楽映像といえば、精々コンサートやライブを撮影編集したものであり、昨今の映画の如くビデオクリップではなかった筈です。おそらくこういう音楽映像が一般化し始めたのは、カラオケブーム後からではないでしょうか。しかし音楽として既に完成されているものに何故映像が必要なのか? 「音」のプロであるミュージシャン達が、そこまで「映像」にこだわるからには「音楽」という行為だけでは、自分の思いを補完できない何かがそこに存在するからだと思うのです。

ならばプロモーションビデオの主体は音楽なのか? 映像なのか? ここを真剣に考えたいのです。

僕は「映像」であると考えました。音楽が音楽として完成しているならば、映像は要らないものである筈です。要らないものをあえて加え、商品化する以上、プロモーションビデオの主体は「映像」であると言うべきでしょう。プロモーションビデオ、それは音楽の視覚化です。僕等は楽曲の世界が映像化され視覚化される事で、音楽を聴くだけでは分からなかったミュージシャンの想いや世界、詞の意味を突然理解させられるのです。こういう経験は多くの人にあると思います。今回の上演スタイルである「月と語りとアンサンブル」の発想はこのプロモーションビデオに近いものがあります。上述の通り今回上演する作品たちは、既に演劇以外の媒体として完成されているものです。舞台表現化するまでもなく十分楽しめるものなのです。それらをただ朗読し音声化する事には何の意味も感じません。

僕等、演劇人が“舞台表現化”するという事は、作品の“アングル”を変える事です。ひとつの世界に他者の目線や感覚が持ち込まれる事で、何か新しい発見(見え方感じ方)が生まれるものだと思うのです。ただそれは縦のものを横にする事とはまるで違います。いわゆる「朗読」という行為には、文章を音声化する事で物語を立体化し、作品の世界を「音」で楽しんでもらう事にあるかと思いますが、今回の試みはそれとは一線を画すものであると言えます。語弊を恐れずに言うならば、言葉を「目」で楽しんで頂き、そこに世界を感じさたいのです。そしてその結果、新しいスタイルの朗読劇が生まれたならば最高です。

この公演は、劇団大樹がプロデュースする“み群杏子さん”のプロモーション公演とも言えます。劇団大樹は、今後、彼女の作品「ひめごと」「森陰アパートメント」の連続上演を考えているのです。この公演を通し、み群杏子さんの世界に皆様が興味を持って頂けたら幸いです。今回も大先輩である納谷六朗さんを始め、素敵なキャストが揃いました。きっときっと素敵な作品に仕上げる事をお約束致しますので、是非とも皆さま劇場まで足をお運び頂けたらと思います。劇場でお会い出来る事を楽しみしております。