劇団大樹  kawano seiichi
川野誠一

  


この「ひめごと」を上演したいという思いのひとつに、登場人物の中に見え隠れする「孤独の力」。つまり孤独である事を恐れない魂に強く惹かれるものがあるからです。それは僕を含め、現代人が「孤独」を強く恐れる傾向にあるように感じているからかも知れません。

そんなお話を作者である、み群杏子さんにしたところ「私はやさしい変わり者が好きです。自分は変わり者だと豪語するわけでもなく、気負っているわけでもないけれど、誰になんと言われても気にせず、自分自身で生きていられる人のことを、気がつけば書いています。風に流されているようで、淡々としているようで、でも、それはなかなか難しい生き方です。私自身、そうありたいと思いながら、いろんなことを気にしている。だから、書くのかもしれません。そういう人たちへの憧れと尊敬とオマージュをこめて。私の書きたいのは、きっと、川野さんのいう、孤独になることを恐れない人たちなんですよね」。そうおっしゃいました。

現代人は他者との関わりの中で「単独者」であるよりも、頑なに集団の一員、つまり「群れ」であろうとしているように感じます。それは他者との違いを極度に恐れている表れではないでしょうか。自分が自分らしく在る事よりも、相対的に「こうありたい、こうでなければ」という、生き方考え方をする人が多くなって来ているように僕は感じます。最近は「多チャンネル化」という言葉にも象徴されるように、場面ごとに自分を最適化していき、何となく他者に付き合ってしまう、かと思えばネット上では、会った事もない人間に、真剣に恋の悩みを打ち明けたりする人が増えているそうです。それは、その場その場で、他者と感覚を共有しないと関係性を維持しづらい、空気を読めなければ自分が孤立してしまうという恐れから、本来、付き合わなくてもいい相手とまで付き合ってしまっている現実があるのではないでしょうか。これが悪いという事ではなく、それ程までに、他者とのコミュニケーションが繊細になって来たという事です。この背景にはケータイやインターネットの普及が影響している事は言うまでもありません。群れながらも人と距離を置く事が当たり前という、心身分裂社会となりつつあるのです。

そういう影響からでしょうか、現代人は「自己肯定力」が衰えて来ているように思います。自分に素直に生きるという事は、とても大きな孤独を抱える事になるかも知れません。しかし「孤独」とは、他者と違う自分の生き方を肯定する勇気を持つ事だと僕は思うのです。そして人間のエネルギーとは、在りのままの自分を肯定する事で、より強いパワーを生み出すように思うのです。誰よりも自分を肯定できるのは、他ならぬ自分自身の筈です。誰が信じなくとも自分だけは自分の生き方を信じよう。自分の生き方を真っ当しよう。言葉にすると薄っぺらくも感じますが、こういう決意は並大抵の意思では出来ません。

この「ひめごと」に登場する人物から僕は、そういう人間の強さをあらためて教えられたように感じているのです。どこか孤独である事から生まれる逞しさを登場人物達に感じるのです。僕はそれを「孤独の力」と呼びたいのです。

過去の上演では「女は恐ろしいなあ」という感想が、特に男性から多かったと聞いています。もしかしたらその舞台の演出ではミステリー色が強すぎたのかも知れません。今回、み群杏子さんに改稿して頂いた大樹版「ひめごと」では、もっとそれぞれの内面性に、特に、父親を捜す、真木森生の内面と、母親としての、大沢未散の内面にスポットを当て、写真家/藤崎信という人物が何者だったのか? どうなってしまったのか? という事ではなく、今なお藤崎信と共に生きんとしている者達の「孤独の力」の核とは何なのか? という視点から作品を見つめ直し「生きていく」という事の厳しさを問いたいと考えます。