劇団大樹  kawano seiichi
川野誠一

時計や携帯は捨てられなくても僕らは・・・


僕が最初の子供を授かった時です。妻が退院し家に帰って来る前に、物置のようになってしまっている自宅の一室を子供部屋にしようと思い立ち、片付けを始めました。ところが次々と出て来る懐かしいガラクタ達に、いちいち手は止まり、捨てようか捨てまいかと迷うばかり。ダンボール箱や押入れからは、日用品から、劇団公演で使った小道具や台本、学生時代からの愛用品や写真が次々と。それらの物を手にする度に、僕の時間は静止し、心が思い出の時間にタイムスリップしてしまうのです。

江國香織さんのある小説に「過ぎたことはみんな箱の中に入ってしまうから、絶対になくす心配がないの」という言葉が出て来ます。僕らの心のメモリーはとても優秀で、忘れたいことも忘れたくないこともひっくるめて心の箱の中にそっと仕舞っておいてくれます。そして、その心の奥底にある箱は、懐かしい物や、紙の端に書き殴られた文章にすらカタコトと反応し、僕の時間を止めてしまうのです。まるで一瞬の星の瞬きの中に永遠を感じてしまうように、物に宿る記憶や思い出が、ふと時間という概念を超越し、ささやかな「時間旅行」を体験させてくれたのでしょう。

僕は「森蔭アパートメント」を読みながら、そんな出来事を思い返していました。み群杏子さんのいつかのブログに「温めていた大切な思いは、時として現実以上の確かさで、心の中に残っていくような気がします」とありました。この物語の根底にあるのは、過去との関わりであり、時間という概念の捉え方にあります。僕らが「今」と感じている時間は「これまで」と「これから」の中心にあります。その軸に、ある特別な、物や場所といった空間軸が交差する時、僕らは「時間」という概念から解き放たれ、別次元へとタイムスリップさせられてしまうのかも知れません。

主人公である、浅野ひかりも、云わばそんな時間旅行を体験するわけです。そして、ひかりを「森蔭アパートメント」へと誘う役割を担うのが、カバンというのが面白い。兎に角もカバンとは、人が遠くへ行く時のために作られた物です。単純に「入れ物」としての道具ではなく、カバン本来の役割を、このカバンに負わせているところに、僕は、み群さんの「何か特別な」こだわりを感じてしまいます。きっとみ群さんにとってカバンとは「時間旅行」に必要なアイテムなのですね。

では僕らにとって時間とは何なのでしょうか? 僕らが社会生活を営む上で、絶対的な共通感覚が「時間」かと思います。時間という固定概念がなければ、同じ時間に人と会うことも、期限を決めることも出来ません。「何時にどこどこで会おう」「これを何時までに仕上げて」、僕らはこういう時間の使い方をします。では僕が、物置のガラクタと接することで体験した、あの時間は、何なのでしょうか? 僕が体験した時間は、上述のような時間軸とは全く違うものでした。もっと感覚的で、もっと不確かな時間。つまり僕が感じた時間は、数字化、時刻化できるようなものではありません。こういったタイムスリップを経験したことがある人は、大勢いるのではないでしょうか?

そして、そんな不確かな時間空間に暮らすのが「森蔭アパートメント」の住人達です。

彼らの世界にも当然時間はあるでしょう。ですが彼らの、何とものんびりとした生活からは、僕らが囚われているような時間の意味は感じられません。携帯電話だって不要です。彼らにとっての時計とは、太陽であり、月であり、自分自身であり、また「カフェの時間」の看板だったりします。そこには、朝があって、夜があって、人の営みがあります。良く分からない不思議な世界であることを除けば、ここには実直で原始的な営みが溢れています。僕はそこに言い知れぬ幸福を感じるのです。

現代人は、今を生きることに精一杯で、そんなのんびりとした時間を生きることは難しい状況にあります。24時間、発信され続ける情報や、24時間、起動し続けるモバイル機器は、知らず知らず僕らを拘束し、時間を奪い、僕らは時代に乗り遅れないよう、ただただ必死になってしまうのです。先日、電通総研が行った「生活におけるインターネットの重要度」というアンケートによると、10 代〜30代の3割は「ネットがないと生活できない」と答えたそうです。24時間、いつでも接続が可能なインターネットは、確かに便利なものですが、それは僕らの時間感覚を麻痺させ、日の出や日の入りを意識させなくなってしまいます。ご存知の通り、1日は24時間しかありません。にも拘らず現代社会では、時として25時、26時、酷い時には30時なんて時間が存在します。もう僕らは在りもしない時間を作り出さなければ生きられない時代を生きているのです。もうこれは異常な生活であることは言うまでもありません。朝、太陽が昇り、そして沈み、夜が来て、また朝、太陽が昇る。自然は、太古から変わらず同じ営みを繰り返しています。でも現代社会は、僕らから、夜を奪い、月夜を奪い、星の瞬きさえ感じることが難しい時代にしてしまったのです。

そして時間は、宇宙の働きより、数字的な意味合いばかりが強くなってしまいました。

僕らはもう携帯電話や時計を外すことは出来ないかも知れません。でもだからこそ素敵な時間旅行をしてみたいと思うのです。僕らは、時間の支配から逃れ、一時ながら「時間旅行」をすることが可能なのです。僕ら人間にはそういうチカラが備わっているのです。僕は、この作品が、たとえ一時であろうと、時計を外し、携帯電話を置き、幸せな記憶に思いを馳せながら、星の瞬きを仰ぎ見るような時間を与えてくれるような気がするのです。以前、読んだ、何かの小説に、宇宙とは平面でなく、時間もなく、何層にも重なり合っているカラクリ箱のようなものだ、という比喩がありました。この表現は「宇宙」というひとつの概念として、僕の中にとても印象的に残っているものなのですが。この表現はそのまま「森蔭アパートメント」という世界に当てはまるように思います。

劇的な展開も、ロジックもないこの物語に、どこか普遍的で、どこか寓話的なものを感じてしまうのも、み群さんの描く世界が、僕らと宇宙との繋がりを感じさせてくれるからかも知れません。そして日常生活の中で、無感覚に受け入れてしまっている、煩わしい社会生活から開放させ、人間本来の営みを、水に抱かれるかのような柔らかさで感じさせてくれるからかも知れません。